昭和40年05月31日 朝の御理解
今の椛目に御神縁を頂いておる方達が、どういう信心を目指し、どういう信心でおかげを受けていかなければならないかと言うようなことを朝の御祈念に思わせていただいておったらね、こんなことを頂いた。「赤かとバイ、金巾(かなきん)バイ、唐人さんから貰うたとバイ」。
これは長崎のわらべ歌らしいですね。長崎に昔から子供達が唄うた歌の文句なんです。赤かとバイ、金巾バイ、唐人さんから貰うたとバイ。皆さん、どういうような風にこれを解釈され、皆さんがどういう風に理解付けられますでしょうか。それが、現在の椛目の御神縁を頂いておる方達がそこに焦点をおき、「ね」そういう信心にならせて頂く時に私どもの願いが成就される。
それは、沢山なお参りをなさる方の中には一人一人、その自分自身の難儀のためにお参りなさる方も沢山ある。例えばならそういう人達でもです、椛目的信心というものが段々身についてくるときに、その難儀も、その願い事もさることながら、そういう椛目の現在信心を続けておる人達の信心の焦点としてです、そこに焦点をおいて、そこに祈りが集まれるときです、私共の願いが神様が、いわば、頼まんでも、願わんでもおかげ聞いて下るといったような感じ。
赤いとバイ、金巾バイ、唐人さんから貰うたとバイ。唐人さんというのは外国の人という意味でしょう。かなきんというのは、「あの」布に金巾という布があるでしょう、あれは昔、更紗って、ね、非常に珍重がられた布らしいですね。それが、赤いきれであったとこう言うわけなんですね。そこで、椛目で日頃頂いておるその御理解でいくとどういうことになるでしょうかね。
もちろん、皆さんお聞きなってから感じられることは、はっ、これは御造営に直結しておることだなとこう思われるでしょう、そう思われたでしょう皆さん。そうなんですから。赤いとバイということは、これは信心の情熱のことだと思うんですね。信心の熱情のことだと私は思うんです。ね。
信心の熱情が心に燃え、しかも、それが形の上に現されてたぎっておらなければならん。そのために修行させて頂いておるというような信心が、日日なされていかなきゃならない。かなきんバイ、これは、もう上から読んでも下から読んでも同じことだと思う。金、金、そういう意味な感じが致しますね。金(かね)という字のところで、金(きん)という字のところで、金というしんに読むわけなんです。ゴロから言うても。
金銭の、お繰り合わせを頂かなければならないということ。しかも、それがね、他の、ほかから、貰うたとバイというものでなきゃいけないということ。神様のおかげで頂いたんだということじゃないといけないということ。ね。昨日もある方が、今度の御造営の皆さんところの手元に届いておるでしょう。あのお手紙、家族中でもうその話し合いばっかりして、いっこうにその決まらん、という訳なんですね。
先日から頂きましたように、腹が決まらなければ神様の働きようがないと仰るんだもの。心がどういう順を作る、心がどういう、まだ出来るというふうにです、決まらなければ水道の引きようがなからなければ、電気の引きようがないと神様は仰る。水道の引きようということはお恵みの水の限りなく出る場と言うものを、神様とてもです、こちらがグラグラしとったんじゃ、迷うておったんじゃ、腹が決まらなかったんじゃ、そこに、どこに水道を引いていいやら分からんじゃないかと。
暗く、真っ暗いとこう言うとってもです、さあ、電気を付けて下さいちいうなら、どこにつけ、このように付けて下さいといことにならなければです、どこに、電気施設をしていいか分からんじゃないかと。こういう。ねえ。一生懸命のそれはその簡単な、簡単なと言うか、ねことだったらです、それは決まらんこともなかろうと、それで簡単に決まるだろう。けどもそれ以上の花がです、銘々が兎に角、一生懸命におかげを頂きたいと思うておるから、やはり決まらんのである。
そしたら、その息子さんが言わっしゃった、あんたどんがもう、人の顔色ばっかり見とるけんで分からんたい、とりあえず、一生懸命な思いで、あるいは銘々が、それだけならそれで良いち、というて、その息子が申しましたと言うてお届けをしておられました。銘々が、あんたは幾ら、私はち、(笑い)言うごたるふうに家族中でも、そげんなんことではいけんて、誰に見せることでんいらんとじゃないの。銘々が一生懸命いになればそれでいいじゃないかと言うて、まあ、息子が申しましたというて、先ほど御祈念に参って見えてからお届けがあっております。
腹が決まらんことには、電気の施設も水道もどこに設備をしてよいか、それは分からん、神様が、ね、だからそこんところをです、ね、赤かとばい、金巾ばいと、唐人さんから貰うたとばいと言うようなです、おかげを頂くために、私はそういうおかげが必要じゃなかろうかとこう思うのです。そこでですね、今度はそれをもう少し具体的に言うめいめいの心の状態、信心の状態、おかげの受けやすい心の状態には、今どういう状態でなかなければならいかということ。
昨日、一昨日でした、久留米の毎日参って見えるですね、空閑さんって、菊栄会の方ですけれど、先生もう、あの人は材木関係の新聞の組長をしておられます。あちらもなんかその、25年の記念の何か年柄にあたるらしいですね、その新聞がでけてからの、何か特別な行事があるらしい。こちらにも25年の記念祭で、しかも、御造営というそれに取り組んでおられる。
私の仕事の上にも25年という、そういう状態の中にある。ところが親先生、この頃はもう椛目の御造営のこつばっかり考えとるもんじゃから、もう、全然自分の仕事が手がつかんという訳なんですね。私は申しました、大体、そんなことであっちゃならん、信心がそういう事に両立する、対立するというようなことがあっちゃならん。ね、お仕事と信心というものは、一つでなかなきゃいかん。
信心即生活でなかなきゃいかん。それに一生懸命信心のこと考えたら自分の仕事が手につかんというようなことではいけんのだけれどね、まぁ、一つの過程においては、それだけに呆うけち見ることもよかろうと私は申しました。ね、そんぐらい呆けなけりゃ、おかげは頂かれんと私は申しました。寝ても覚めても御造営のことばっかり、自分の仕事のことを忘れてしまう。「ね」。夢見るこつも御造営のことばっかり、いわば、寝ても覚めてもである。「ね」。皆さんはどうでしょうか。
昨日、久保山先生のところから、梅をちぎったからというて、沢山しのんだ梅をお供えいただいた。(笑い)梅ち言うたら、見るだけで、こう、唇がたれごたる。開けてみたところが、もう真っ青な梅がいっぱい篭に入れてある。それなりに、その辺からこう、あがってくるようなものを感じる。つばが出てくるような感じがする。皆さんでもそうでしょう。私が特に神経過敏だから、そんなに感じるのかもしれませんけれども、梅と聞いただけでも、口の中が、すいなるような気がする。
それは、梅そのものが本当に酸いものだということを知っておるからなんです。神様の働きというものをです、神様のおかげというものをです、御神徳の中に生かされあるということをです、ね、私どもがいよいよ信じさせていただいておればです、もう見るもの聞くもの、梅を見たときに、生唾があがってくるように、どこを見ても有り難いなあと、勿体無いなあと、いうなら、有りがた涙がにじんでくるようなものが、あるようなおかげを頂きたいと思うのですね。
どちらを向いても御神徳の中、どちらを向いても神様のおかげの中、ようもおかげを頂いてきたもんじゃ、いわゆる、そこを信心を身に付けさせて頂いたもんだと、これから先どのような風に有り難いおかげに展開してくるだろうかと、自分の周囲をながめただけでもです。神様の働きというものを信じればです、梅が酸いいということを知っておるから、梅と聞いただけでも口水が垂れるように、ね、おかげのことを思うたらです、職場にあっても、ね。村に出ても、お炊事の御用をさせて頂きよっても、どこを見ても、ここを見ても、何を聞いても有り難いなと、こう、じーんとくるような、おかげを頂きたいなあとこう私は思うのです。
それにはね、昨夜の御理解の中に、こういう御理解を頂いた。私共の心が迷うというものがです。ね、いわゆる、信心を頂いておるということの有り難さ。ね、めぐりの自覚、本気で修行させていただこうという修行精神、修行の心、ことにすらです、自分の心の中に中和も保ち、この三つを自分の心の中にいっぱいである時です。ね、いわゆる、成り行きを大事にさせて頂けとか、いわゆる、自然との対決の場がある時です、どういうようなことを言われても、どういうような問題が起きてまいりましてもです、それを合掌していけれる元気な心というものが頂けれるとこういう。
昨夜、私はお風呂入っとった。昨日、少し遅かったもんですから、もう薄暗かった。いわゆる薄暗い中でお風呂つかわせて頂きながらです。私はあの自分で電気を付けないことにした。終戦直後のあの険しい時代、修行の時代に近所のお百姓さん、私どもが行水ばっかりしておるもんですから、入りきなさいというてからいつも案内を受ける。たまにはまいります。私はその以後ですお風呂をぜんぜん頂かなくなったのは。
お百姓さんのことですから、お風呂場に電気の用意もしてなか、向こうの方から漏れてくる明かりぐらいな事。いうなら、もう家がすす暗う頂くぐらいでございますから、ね、風呂が言わば、濁っておろうが、汚れておろうが、一つも分からん。それでも足を流させてもらうだけでも有り難かった。
明いとかなんとか、風呂場が暗いてんなんてん。私がいつか久保山先生に話したことがあった。今のあの便所が向こう、みれいの所にこう行き当たりの所が便所だった。電気がなかった。あそこに、五燭光の電気がとつけられるようになった時に、廊下を通る時に、いつも私は電気が行かにゃ便所に入られんと言うてお話したことが私はある。本当にそうだった。もう工場どん言う段じゃない。通るところを通らせていただかなきゃいけん。そういう気持ちなもんですから。
私は夕暮れになったからと言うて、真っ暗なら付けますけれど、まだ、その、薄暗いのような位のことでは、私は点けんのです。もう、使わにゃならん時は、どがしこ使うたっちゃいいけども、無駄なことにつこうちゃならんというのが私の生き方、流儀なんです、一切が。もうお金でもそうなんです。もう、使う時はそれこそ、丸引っくり返してつこうてもかまわん。けれどもね、もう、それこそ無駄なことには金輪際使うてはならん。これが私の流儀なんです。
電気なんて点けちゃ、ぴしゃりと消して回る。かというて、点けなければならん所は、どういうよか電気でも、それこそ、点けっぱなしに点けさせて頂く。これが私の流儀なもんですから、やっぱりお風呂の場合もそんな風です。そしたらね、外側から家内がカチッというてからスイッチを入れてくれた。いわゆる、明るくなったんです。そういう時にせっかく、いうならまあささやかなですね、修行のつもりでしょうか、点けんでよかとこに、とこう言うような思いがするんですね。
ところが昨日はカチッとその点けてくれたとたんにね、もう有り難うなったんです。有り難いなとこう思うんです。そしたらねお風呂の中でです。神様から頂きます事が食べ物のことだった。自分の心の中がです、修行させて頂こうと言う意欲があるとき、自分の、もうどうなくても是だけの巡りがある、ゆうにもみんにも巡りを持っておる自分だもん。これ以上めぐり積む事はあっちゃならんと巡りの自覚が心の中にある。
信心を頂いておると言うことはなんという有り難いことじゃろうかと言う、この三つがお前の心の中にいっぱいあるときは、何があっても、どういうようなことでもです。この心を崩さず事はないと言うこと。例えば、些細なことで、そげんせんでん良か所にと言ったら、もう心、有り難い心が崩れておる時なんです、言わば。些細なことなんだけれどもです、どういう場合に、どういう事柄の中からでもです。
それは有り難いなあと、有り難いなあと。暗かなら、暗か中でも有り難いなあと、電気が点いたら点いたで有り難いなあと。そういう状態のおかげを頂く為にです、私共が心の中に、どうなくても、こんなにめぐりの深い家だものというです、思いです、めぐりの自覚です。同時にそれに、適当する、匹敵するだけの修行の精神だと。信心を頂いておると言うことが有り難いなあとこう心の中に、そういう思いがです。万事どの上に、自分の心の中にあるときにです。私がいつも言う自然を大事、成り行きを大事に、自然の働きを尊ばせて頂くということ。
そのことを合掌して受けれる心。そういうような心、そういうようなところにです。私は赤いとばいと言う熱情がかけらなければいけないと私は思うのです。そこに、私共が願うとしておるところのです。ね、金巾ばいと言うお繰り合わせになってくるだろうとこう思うのです。いわゆる、唐人さんから貰うたとばいと言うようなおかげが頂けて来ると思う。言わば、貰うたとばいとならなくてもです。もう一切が神様のお守りなのだから。これも神様から貰うたとばい。
これも神様から頂いたとばい、ということになってくるのじゃないでしょうか。私共現在頂いておるものでもです。うんにゃ、これは私が働いて出来たち、言えれる人が一人でもあるか。その働きがどこから来ておるのか。ね、本当に一切が神様の御物ばいという、神様から一切がもろうたとばいという自覚に立つ時に、私共の一生懸命の思いが定まらん筈はないということ。そしてその、今日の、昨日の御理解の初めに申しましたように、赤いとばいと、かなきんばいと、唐人さんからもろうたとばい。というその・・・
(途中切れ)
インターネットで調べたところ、
長崎のわらべ歌で下記の内容を発見した
・赤っかとばい(赤っかとばい かなきんばい おらんださんから もろたとばい)
(早岐-佐世保-南風崎-川棚-大村-諫早-喜々津-長与-長崎)
http://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/199812_01.html